「見て盗め」が正解だった20年前
俺がこの工場に入った23歳の頃、教育なんて言葉は存在しなかった。 親方の後ろに立ち、鋭い視線でその手元を盗み見る。失敗すれば怒鳴られ、時には工具が飛んでくる(今なら即アウトだが)。「なぜそうするのか」なんて聞ける雰囲気じゃなかったし、聞かなくても「身体で覚える」のが当たり前だった。
職人の背中は、多くを語っていた。 その無言の圧力こそが、俺たちを一人前に育て上げた「教科書」だったんだ。
だが、2026年の今。俺の目の前にいる20代の新人に、同じことは通用しない。 彼らに「背中を見て覚えろ」と言っても、彼らはただ立ち尽くし、手元のスマホの時計を気にするだけだ。
「なぜ?」という問いに、俺たちは答えられるか
最近入ってきたZ世代の若手と接していて、一番驚くのは彼らの「合理的さ」だ。 彼らは決して怠けているわけじゃない。ただ、「納得できないことには動けない」だけなのだ。
「とりあえず、この板を100枚曲げてみて」と指示を出す。 すると、彼は動く前にこう聞いてくる。 「なぜ、この角度から始めるんですか? 逆からの方が効率的じゃないですか?」
一瞬、カチンとくる。「20年やってる俺のやり方に口を出すのか」と。 だが、そこで踏みとどまって考えてみる。 俺は果たして、自分の「勘」や「経験」を、言葉で説明できるだろうか?
スプリングバック(曲げ戻り)の計算、板厚の微妙な誤差、金型の摩耗具合……。 俺たちが「なんとなく」で処理していた高度な技術を、彼らは論理的に知りたがっている。
背中に「字幕」をつける作業
気づいたことがある。 今の時代の「背中で語る」には、「字幕」が必要なんだ。
俺がベンダーの前で板を構える時、なぜ重心を少し右に置くのか。 なぜ曲げる直前に、板の表面を指でなぞるのか。 その一つひとつの動作に、俺は言葉で「解説」をつけるようにした。
「これは、板の反りを確認してるんだ。ここが0.1ミリ浮くだけで、最後は数ミリのズレになる」 「この音、聞こえるか? これがしっかり金型に乗ってる時の音だ」
そうやって「背中」に「言葉」という字幕を添えると、彼らの目の色が変わった。 「あぁ、だからパパさんはあんな動きをしてたんですね」 (なぜか現場でもパパさんと呼ばれたりする)
彼らは納得すれば、驚くほど吸収が早い。 デジタルネイティブな彼らは、数値化された情報を処理するのが得意だ。俺が20年かけて感覚で覚えたことを、彼らは論理で最短距離で追い越そうとしている。
娘たちとの会話が、現場で役に立った
実は、この「字幕」の重要性に気づかせてくれたのは、家での娘たちとの格闘だった。
高2と中2の娘。 彼女たちに「親父の言うことを聞け!」なんて言っても、鼻で笑われるだけだ。 「なんで勉強しなきゃいけないの?」「なんでスマホを置かなきゃいけないの?」 その一つひとつに、俺なりに必死に理由を説明してきた。 感情的にならず、一人の人間として向き合い、根拠を添えて話す。
それが、いつの間にか現場での若手への接し方にも活きていた。 「家での娘への言い訳」が、そのまま「現場での新人教育」のトレーニングになっていたんだ。 43歳、親父のメンタルは現場と家庭の両方で鍛えられている。
職人は「無口」である必要はない
「職人は黙って仕事をするものだ」 その美学もかっこいい。だが、技術を絶やさないためには、俺たちが変わらなきゃいけない。
俺のゴツゴツした背中を見せるだけじゃなく、その背中が何を考えているのかを、恥ずかしがらずに言葉にしていく。 それが、2026年を生きる中堅職人の「新しいスタイル」なんじゃないかと思う。
20年経って、俺の技術は完成に近づいているかもしれない。 でも、それを「伝える技術」は、まだ始まったばかりだ。 ベンダーの前に立つ俺と、その後ろで目を輝かせる若手。 その間にあるのは、もう「沈黙」じゃない。

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